江戸・明治時代以降

大坂夏の陣は四條畷にとって関わりの深い戦いでした。

徳川家康一万五千人の軍隊は星田に、長男の秀忠の軍二万人が陣をしいたのは今の忍陵神社のある高台でした。

この戦いで、東高野街道は兵と軍馬でごった返しました。

四條畷は直接戦場なはなりませんでしたが、四條畷の方に逃げてきた豊臣の兵士はつかまえられて、たくさんの人が殺されたといいます。

死骸があちこちに重なり合い、村の人びとは恐ろしさのあまりに逃げ惑いました。

まるで地獄のようなありさまでした。

この地が大阪府の管轄下に入ったのが明治14年、そして明治28年に、JR学研都市線が片町、四條畷駅間に開通して大阪と直結するようになると、

旧制府立四條畷中学(現府立四條畷高校)が設立され、北河内の教育の中心となります。

 昭和に入ると30年代後半から人口増加の兆しが見え始め、JR学研都市線の複線化とともに急激な都市化が進み、

昭和45年に府内30番目の市として四條畷市が誕生しました。